「お察しください」に察することのできない人たち

今朝方ニュースになった、あの件。

当事者が「お察しください」とのコメントを出して、配慮を求めているにも関わらず、起こっていた状況に、正直唖然とした。

 

伝統芸能の担い手である彼は、言葉に対して、一般人よりも真摯に向き合ってきているだろう。

その彼の常識の範囲で発した「お察しください」は、受け手に正しく受け止められたとはどうしても思えなかった。

「察する」ことのできないネット世代の人々

この件については、朝、同僚から第一報を聞いたのが始まりで、仕事中、ネットを使うので、どうしても目に留まる話題だった。

 

まったく興味が惹かれないわけではないので、ブログにアクセスして一読して、彼の言いたいことはすべて察せられた。

そして、この件については、そっとしておくべきだと私は思ったのだが、ふと目に留まった、いわゆるコメントの多さに恟然とした。

しかもその内容が、記事を読めば帰結する結論を信じたくない、違いますよね、などの内容なのである。

 

 

彼自身、これまでブログで書き連ねてきたことに対する義務感から、書かざるを得なかったものであるのに、どういう思いでその記事を書いたのかを察することができずに、無神経なコメントを残す者の多いことよ。

 

彼の真意は測りかねるが、いまある状況を、葛藤の中で何とか処理しようとしている中で絞り出した言葉で、そっとしておいてほしいことを角の立たない言い回しで、あらわしたのに、それを忖度してもらえないことは、とてつもないストレスだったのではないだろうか。

 

元々日本語は直接的な表現を避け、遠回しな言い方や雰囲気で物事を伝える傾向がある。

 

しかし、昨今はその回りくどい言い方を嫌い、物事をはっきりと言う傾向が強くなっている。

 

特にネットの世界においては、直接的な答えを求める傾向がより強いので、今回の「お察しください」に対して、真意を測りかねるコメントが乱立するような状況が起こったのだと感じる。

気遣いができなくなった社会

察することができなくなったことに加え、気遣いができなくなったのも昨今の特徴だと思う。

 

真意を察するも、それに対してコメントをしている者たちは、本人たちはよかれと思い、それが気遣いだと思ってコメントをしているのだろうが、私はそれは気遣いができていないと感じた。

 

この件については、察して、そっとしておいてほしいという思いが行間からにじみ出ているように思われた。

 

そうであるから、私は「そっとしておく」選択をした。

 

しかし、膨大な数のコメントや反応があった。

 

これはSNSの弊害だと思う。

 

Facebookに何か書きこんだら「いいね」がほしくなる。

 

その感覚で、何か反応をしないといけないという感覚に陥りすぎているのではないだろうか?

 

反応してほしい内容があるのと同時に、目を通してもらっても、反応を求めない内容もあると私は思う。

 

当事者の中で、葛藤し、咀嚼し、整理したいことで、他人の介入は望まないもの。

そういった種類のものがあることを、はたしてわかっているのであろうか。

 

そうであるなら発信しなければいいという意見は至極もっともである。

 

しかし、本当は発信したくなくても、書かざるを得ないことも、中にはある。

 

そういったものに対して、目が留まった者が行える配慮というものもあるのではないだろうか。

 

相手を気遣うためにあえて反応しないという気遣い。

何かをすることが必ずしも正しいこととは限らない。

 

そう、私は思う。

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記者会見から感じた怒り

そんな中、午後、行われた記者会見。

私はそこに彼の怒りを感じた。

 

彼の職業柄、公の場で今回のことを公表せざるを得ないことは仕方ないことなのかもしれない。

 

しかし、彼自身、本来は私的なことを発表することに違和感を感じているようで、そのことを会見の冒頭口にしていた。

 

この会見は生中継を見ていた人の近くで、音声のみ漏れ聞いていたのだが、冒頭から彼の声のトーンに怒りと諦めのニュアンスが感じられた。

 

最初は喪失感からくるやり場のない怒りと、葛藤によるものなのかなと思ったが、よくよく言葉を聞いていると、「お察しください」に察せられない者たちへの怒りのように感じられた。

 

元々自身で発信していたものなのだから、察しろと言って察してもらえないことにキレるのはお門違いだろうが、という意見もわかる。

 

そういう意味では自業自得なのは否定しない。

 

だが、敬意をはらわない質問者、そしてネットに書き込んだ者たちに対して、怒りというか、そのレベルに達していないことに対する苛立ちは、ずっと読み取れた。

 

人生の大半、伝統文化に身をおいてきた彼自身の持つ言語感覚は、間違いなく一般人のそれとは違う。

 

そして、彼自身、そのことに気づいていて、それゆえにわかりやすい表現で発信したにも関わらず、それすら真意を汲み取ってもらえない苛立ち。

 

また、人として持っているべきである敬意をはらわず、自分のことではなく、家族のことについて、あまりに無遠慮に質問を投げかけてくる者たち。

 

周囲の、家族の迷惑にならないようにするために、不本意で開いた会見であることを察することもできない者たちを前に、彼は絶望し、そして気遣いをしているつもりになっている無礼者たちに憤りを感じ、それがことばの端々から出ているように私は感じた。

 

本当の気遣いとは何か。

 

そういったことを改めて感じさせてくれたケースだった。

 

なお、これを書いている私自身、彼のことを引き合いに出している時点で、とてもじゃないが、気遣いができているとは言えないことは、少なくとも自覚している。

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